「ついさっきまで、あんなに晴れてたのにな‥‥」

空を見上げて、私は一人ため息をついた。
平和で穏やかな夏の放課後。
素敵なお嬢様になるべく目下奮闘中の私は、今日も資料室で自習用の参考書を探していた。
ところが、目的の参考書を見つけ、嬉々として帰ろうとした矢先に、突然雨が降ってきたのだ。

(さて、どうしよう? 友達はもう全員帰っちゃったから、予備の傘を借りたりもできないし‥‥)

昇降口で立ち往生しながら私はうんうんと唸った。
昼間はあんなにうるさく鳴いていた蝉も、今はひっそりと静まり返り、しとしと降る雨の音だけが辺りに響いている。

(はぁ‥‥やたら蒸し蒸しするし、急に降ってくることも多いし、夏の雨って本当困りものだな〜。しかも全然止みそうな気配がないし)
「‥‥こうなったら、もう走って帰るしか‥‥!?」

覚悟を決め、ぐっと鞄を握り直したその時‥‥。

「‥‥お困りのようですね」
「えっ?」

丁寧な声と、そっと差し掛けられた傘に、私は慌てて顔を上げた。
「ですが、いくら夏場とはいえ、雨に濡れては風邪をお召しになりますよ」
「貴臣さん‥‥!」

驚き顔の私を見て、大人びた顔立ちがくすっと頬を緩める。
この優雅な微笑みの持ち主は、斯波先輩と同じ執事養成科3年生の、鳥羽貴臣(とば たかおみ)さんだった。
彼もまた『執事選抜』時のメンバーで、お嬢様として過ごしていた時に私のお世話をしてくれた男の人の一人だ。
相変わらず執事の見本のような立ち居振る舞いに、思わず暑さを忘れて見惚れそうになる。

「さ、@名前@様、どうぞ」
「あ‥‥傘、貸して頂けるんですか? 助かります、ありがとうございます」

貴臣さんが差し出してくれた傘の柄に手を伸ばそうとすると、微笑みでやんわりと遮られる。
「いえ、それには及びません」
「え‥‥?」
「私も今からちょうど外出するところだったのです。ですが急ぎの用ではありませんので、その前に@名前@様の御宅までお送り致します」
「ええっ!? 私の家までって‥‥そんな、悪いですよ」
「どうぞご遠慮なさらず。先ほども申しましたように、私の用は急ぎではありませんから」

でも‥‥と言いそうになって、私はそれを思いとどまった。

(このまま遠慮してると、貴臣さん、最終的には自分が外出を止めるから傘を使っていいって言い出しかねないかも‥‥)

選抜の時にわかったけど、彼には少し自分のことを後回しにしてしまう傾向がある。
それは斯波先輩より1つ年上のはずなのに、斯波先輩と席を同じくして学んでいる理由にも、関係する部分だけれど‥‥。

「‥‥‥‥‥‥‥‥」
「@名前@様‥‥?」
「わかりました‥‥。それじゃあすみませんけど、家まで送ってもらっちゃってもいいですか?」

私の言葉に、貴臣さんは笑顔で答えた。

「もちろんです。では参りましょうか、@名前@様」




雨に濡れる街中を、貴臣さんと並んで歩く。
自分で差す時よりもずっと上の方に傘があるのが、何だか不思議な感じだった。
やっぱり貴臣さんは背が高いなぁなんて実感しながら‥‥でも、すれ違う人達の視線を感じるのは、そのせいだけじゃないだろうなと思う。

(貴臣さんの仕草って本当に丁寧で綺麗だから‥‥つい目がいっちゃうんだよね)

街中に執事服の人間がいれば確かに目立つけど、貴臣さんは上手に周りの雰囲気に合わせて溶け込んでいるし、決して悪目立ちをしているわけじゃない。
それでも目を引かれるのは、彼自身が持っている品の良さや洗練された振る舞いによるものなんだろう。

「本当に、生まれながらの執事って感じですよね、貴臣さんは」
「‥‥? 突然どうなさったのですか?」
「すれ違う人が‥‥まぁ、女の人が多いんですけど、貴臣さんを見てうっとりしてるというか、素敵だなって眼差しで見ていますから」

くすくす笑って伝えると、貴臣さんは少し困ったように、遠慮がちな微笑みを浮かべる。

「ここは私も国仕院の生徒らしく、振る舞いには気をつけないといけませんね!」
「ご無理をなさる事はないと思いますよ」
「いえ、無理じゃなくて、どっちかというとやる気に満ちてる感じです。貴臣さんといると、自然と背筋が伸びるというか‥‥」
「‥‥ふふ、そうでしたか。それなら私も微力ながら応援させて頂きます」
今度の笑みは、ほんの少しあどけなさもある10代の男の子らしい表情だった。
普段は執事として完璧な貴臣さんだけど、時々飾らない顔を見せてくれるようになったのは、『執事選抜』を経て得たものの1つだと思う。
嬉しくなって、私は他愛ない世間話を始めた。

「そういえば貴臣さんは夏期休暇、どんなふうに過ごすんですか?」
「そうですね。特にこれといった大きな予定はありませんが‥‥‥‥近場でいいので、湖などには足を運んでみたいと思っています」
「わあ‥‥いいですね。水辺で避暑って感じですか?」
「以前、榎戸様がよくカナダのレイク・ルイーズに訪れていらっしゃったので。私の中でも、いつの間にか夏には水辺に、という印象がついたのかもしれません」

無意識にだろうけど、貴臣さんは優しげに目を細めていた。
榎戸さんというのは、貴臣さんがずっと以前に仕えていたご主人の名前だ。

(貴臣さん、こんなふうに笑って榎戸さんのこと、話せるようになったんだ。‥‥よかったなぁ)
「貴臣さん、レイク・ルイーズってどんなところですか? やっぱり湖が綺麗だったりするんですか?」
「はい。近くにあるビクトリア氷河から解け出た水の影響で、湖は美しいエメラルドグリーンをしています。カナディアンロッキーの宝石と呼ばれる、世界でも有数の眺めなのですよ」
「へええ、素敵ですね! ‥‥日本の夏の、この蒸し暑さとはきっと雲泥の差なんでしょうね‥‥」
「ふふ、@名前@様は暑いのがお得意ではありませんか?」
「どちらかいうと‥‥」
「確かに日本の夏は湿度も高く過ごし辛いですね。突然雨が降ってくることも少なくありませんし‥‥ですが、だからこそ良い部分もあると私は思いますよ」
「この季節の良いところですか?」
「はい。例えば暑さが厳しいからこそ生まれた文化もございます。打ち水や納涼床もその1つですね」

確かにどちらもいかにも日本の夏って感じのする文化だけど、日本に四季がなかったら生まれなかったものかもしれない。

「それにこの雨も‥‥雨に恵まれているから生まれた言葉や和歌もございます。夏の午後に降る雨を夕立と呼んでみたり、初夏に降る雨を翠雨と呼んでみたり‥‥」
「そう言われれば‥‥。日本語って結構面白いですね」
「それと、これは個人的な意見になりますが、朝露の光る朝顔を眺めたり、木陰の涼しさを心地よく感じられたりするのも、夏だからこそ味わえるものかと思います。今日のような夕立にも、また趣があるとは思いませんか?」

そう言いながら穏やかに微笑まれて、私はちょっとどきっとしてしまった。

「た、確かに、私も段々素敵かもしれないって思えてきました!」
「それはよかったです」
(‥‥そういう考え方ができる貴臣さんこそ素敵だなーとも思ったんですけどね‥‥)

‥‥それからも私は貴臣さんと束の間のおしゃべりを楽しんだ。
そうしているうちに、あっという間に家が見えてきて、私はちょっとだけこの時間が終わってしまうことを寂しく思う。

「‥‥貴臣さん、今日は色々とありがとうございました。貴臣さんのお陰で、夏の蒸し暑さや雨も好きになれそうな気がしてきました。また今度お礼をさせてくださいね」

ここまでずっと私の歩幅に合わせて歩き、傘を持ち続けてくれた貴臣さんに、私は改めて笑顔でお礼を伝えた。
貴臣さんも、優しい微笑みを返してくれる。

「どうかお気になさらず。それに、お礼を言うのはむしろ私の方ですから」
「え‥‥?」
「@名前@様と過ごせた時間は、私にとってとても楽しく、心休まる一時でした」
(‥‥!)
「@名前@さまのお陰で、私もますますこの季節が好きになれそうです」
「貴臣さん‥‥」
「それでは、私はこれで失礼いたします」

玄関先の、屋根のある濡れない場所まで私を送り届けて、貴臣さんは踵を返そうとした。
‥‥けれど、彼の執事服の片袖をつかんで、私はそれを引きとめる。

「@名前@様? いかがなさいましたか?」
「‥‥肩が‥‥」
「え‥‥?」
「こっちの肩の部分、濡れてちゃってます。‥‥私の方に傘を傾けていてくれたんですよね」
「それは‥‥」

言いよどむ貴臣さんに構わず、私は制服のポケットからハンカチを取り出した。
濡れて少し色が変わってしまった貴臣さんの執事服を、丁寧に拭っていく。
根っから執事気質の貴臣さんが驚いて困惑しているのが伝わってきたけど、お礼の意味もこめて私はそのままハンカチを動かした。

「‥‥うん、これで大丈夫です」
「‥‥‥‥‥‥」
「まだ雨は止みそうにないですから、気をつけて行ってくださいね」
「‥‥はい」

小さくうなずく貴臣さんの頬が、ほんの少し赤く染まっている。

「ありがとうございました、@名前@様」
「いえ‥‥それじゃあまた明日」

見送る私の頬も、もしかしたらちょっと赤かったかもしれない。