“執事養成科”と“帝王学科”を擁する、国仕院(こくしいん)学園高等部。
名前を聞けば、誰もが「ああ、あのお金持ちのご子息ご令嬢が通う‥‥」と口を揃えて呟くほどの、超エリート校。

そんないわゆる『ザ・上流階級』の学校に、『ザ・一般庶民』である私が通うことになった理由や経緯は‥‥まあ、簡単には語り尽くせないほどに色々あったからなのだけれど。

それでも私はこの学園に転入して良かったと思うし――何より、“執事”のみんなに出会えた事は、どんなものにも代えがたい私の幸運だった。
だから、そんなみんなに見合う“お嬢様”になる事を目標に、私は今でも帝王学科で頑張っている。

仕草ひとつとっても上品に。常に微笑みを絶やさず、どたばた走るなんてもってのほかで――。

(‥‥無理! 暑い!!)

8月、夏真っ盛り。
私は降り注ぐ直射日光に負け、学園の庭にあるガーデンテーブルの下へと足早に逃げ込んだ。
日陰に入って少し楽にはなったものの、うだるような熱気は健在で、ぐったりと椅子に座り込んでしまう。

「暑い、あーつーいー‥‥」
「‥‥夏だ。暑いのは当たり前だろう」
(‥‥え)

突然背後から聞こえた呆れ声に、驚いて目を見開く。
「え!? ――わっ、斯波先輩!? どうしてここに‥‥」
いつの間にかすぐそばで私を見下ろしていたのは、斯波駿一(しば しゅんいち)先輩だった。
執事養成科の3年で、最上級生の中でもトップレベルの成績を誇る執事候補生。
容姿端麗。頭脳明晰。ただし野心家。そして自信家。俺様気質で、ちょっとSの気があるような‥‥。

「何か失礼な事を考えていないか、@苗字@」
「へ!? あ、いえ、そんな事は全然ありません!」

眉をしかめる斯波先輩に、私は慌てて首を大きく左右に振ってみせた。

「そ‥‥それより、さっきもお聞きしましたけど、先輩はどうしてここに?」
「昼の休み時間にわざわざ外へ出ては、“お嬢様”らしからぬだらけた態度を取っているヤツが、窓から見えたものでな」
「‥‥うっ‥‥。す、すみません‥‥。校舎内にいれば空調も効いてるし、涼しいのはわかってたんですけど‥‥」
「ですけど?」
「そうやって室内にこもりっきりでいるのも不健康かなと思いまして」
「気持ちはわからないでもないが‥‥。だからと言って、熱中症などになっては元も子もない。無理をせず、早めに戻れよ」
「‥‥あ、もしかして心配してくださってました?」
「フン。さあな」

鼻を鳴らしたものの否定はしない先輩に、私はじわりと嬉しくなった。

(そういえば、お互い勉強や課題で忙しいし‥‥。こうやってゆっくり話せるのは久しぶりかも)

もう少しこうしていたくて話題を探す。すると、ある疑問が頭に浮かんできた。

「‥‥そうだ、先輩。執事科のみなさんって、夏期休暇はあるんですか?」
「夏期休暇? ああ、あるぞ。帝王学科の生徒よりは短いがな」
「そうなんですね。‥‥先輩、どこか行かれます? 自家用飛行機で避暑地めぐりとか、大型客船を貸し切って優雅にクルーズとか‥‥」

実際、帝王学科の教室ではそんな会話が平然と飛び交っていた。
夏といえば市民プールとか海で遊ぶくらいしか出てこない私としては、先輩たちがどんなふうにこの夏を過ごすのか、純粋に気になってそう尋ねてみる。
だけど先輩は、軽く首を振った。

「いや。今年は、どこにも」
「‥‥どこにも? どこにも行かないっていう事ですか?」
「そうだ。既に執事の実施研修の予定などを入れているからな。学園か仕事先で過ごすつもりだ」
「えっ‥‥」
(家でゆっくりするとかならまだしも、休みを潰して執事の勉強をするって事?)

きょとんとする私に、先輩は苦笑を浮かべている。

「何をそんなに驚く事がある」
「いえ‥‥いつも忙しそうなのに、お休みもないなんてって思って‥‥」
「オレが学園に頼んで、そうしてもらったんだ。実際に執事として働くようになれば、休みらしい休みなど存在しないんだぞ」
「そ、そうかもしれませんけど‥‥」
「それを嫌だ、不自由だと思うようなヤツは、執事には向いていない」
「‥‥‥‥」
「‥‥何だ」

怪訝そうにする先輩を見上げて、私は頬を緩めた。

「先輩って、やっぱりすごいなって思ったんです。見習わなきゃなって‥‥」

彼の堂々とした口調の後ろには、それに恥じない確かな実力と、絶え間ない努力があった。

野心家。自信家。俺様気質で、ちょっとSの気がある。
だけどそれだけじゃなくて‥‥努力家でもあって、誇り高くて、自分の選んだ道にプライドを持っている。

(斯波先輩って、そういう人だよね‥‥)

にこにこしている私を眺めてどこか居心地悪そうにしながら、先輩は肩をすくめた。

「オレの話はいい。そういうお前はどこかに出かけないのか?」
「私ですか? 私も特に‥‥」
「オレも今年は遠出をする気はないが、旅行自体を否定しているわけじゃないからな。訪れた事のない地に足を運んだり、普段と違う文化に触れるのは、やはり大事な経験だぞ。国内ももちろんいいが、違う国を見ておくのもいい」
「そう‥‥ですよね‥‥」
(海外に行くと、大げさじゃなく人生感変わったなんて話もよく聞くし。確かに色々勉強にはなりそうだなあ)
「だけど私、あまりそういう経験がないんですよね‥‥」

数秒首を傾げて悩んでから、私ははたと顔を上げた。

「そうだ。先輩のお勧めとかあります?」
「お勧め、か」
「はい。先輩もこの学園に入る前とかは、色々行かれてそうかなって」
「‥‥そうだな。カナリア諸島などはどうだ」
「カナリア諸島? ‥‥って、スペインの‥‥?」
「ああ。何年も前だが、家族旅行で行った事があってな。島々が変化に富んでいて、砂丘から美しい海まで、見どころはたくさんある」
「へええ‥‥」
「壮大な自然もいいが、大聖堂や博物館など、歴史的価値のある建造物を見ているのも楽しかった。もちろんビーチで泳ぐ事もできるしな」
「すごい。私も行ってみたくなります‥‥!」
「@苗字@も興味が湧いてきたか?」
「はい! 教えてくださってありがとうございます! 今度お母さんに頼んでみようかな‥‥」

私が満面の笑みで答えると、先輩も楽しげに目を細めた。
「そうか。だったら放課後にでも、スペイン語を教えてやろう。いつ旅行をする事になってもいいようにな」

「‥‥‥‥。‥‥‥‥え?」
「何、遠慮はするな。お前が立派なお嬢様になるために日々努力しているのは、オレにもわかっているからな。助力は惜しまないつもりだ」
「いえ、ええっと‥‥お気持ちは大変ありがたいのですが‥‥」

後ずさろうとした私の肩を、がしっと先輩の手が掴む。

「なるほど、スペイン語だけでは物足りないか。では、中国語やフランス語、イタリア語なども付き合ってやっても‥‥」
「あ‥‥あああっ! そうだ! 私、のっぴきならない用事を思い出しました! なので、これで!!!」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「‥‥ふ‥‥っ」

「‥‥え?」

急に小さく吹き出した先輩に、ぽかんと口を開けてしまった。先輩は私から手を離して、隠すように口元を抑える。

「冗談だ。オレもまだ、イタリア語は不得手だからな」

(‥‥他は全部できるんだ!? ‥‥って、そうじゃなくて!)

「じょ、冗談だったんですね‥‥。脅さないでくださいよ」
「脅したつもりはない。お前が勝手にびくびくしていただけだ」
「だって、先輩ならやりかねないと思って‥‥」
「当然だろう。お前が望むなら、本気でやってやる」

どきっとしたのは、さっきみたいに怯えたせいじゃなかった。
からかうように私の頭をぽんと撫でて、先輩が私の瞳を覗き込んだから。

「助力を惜しまないという部分は、冗談じゃない。オレの力が必要なら、いつでも頼れ」
「‥‥‥‥」

心音が速くなって、一度うつむいてしまって。
それからおずおずと彼を窺いつつ、私は口を開いた。

「‥‥じゃあ、その‥‥。‥‥後で、英語教えてもらってもいいですか? 最近はあまり上達してないので‥‥」
「そこからか。‥‥まあ、いいだろう」

野心家で、自信家で、努力家で、誇り高くて――そして鋭さの奥にたくさんの優しさを隠している彼は、口の端を上げて格好よく笑った。

「未来の“お嬢様”を教育するのも、“執事”の役目だからな」