「お願いします!」
「却下だ」

学園の教員室前。月明かりが差し込む廊下にすげない声が響いて、私は言葉に詰まってしまった。
目の前で呆れた顔をしているのは、講師の北条 誠一(ほうじょう せいいち)先生だ。
私は帝王学科に通っているため、執事養成科の講師である彼とは、本来はあまり接点がないのだけれど‥‥。
先生は、『執事選抜』のため特別に編成された“選抜クラス”の、担任だったのだ。
だから先生とは執事のみんなと同じくらいの付き合いがあるし‥‥同じくらい、信頼している。

そんな彼が相手だからこそ、私は必死に頼んでいた。
『明日の朝一で提出する課題を教室に忘れてきたんです。だけど1人で取りに行くのは怖いので、申し訳ないんですが付いてきてもらえませんか』
‥‥と。

しかし北条先生は瞳の温度を下げ、私を冷たく見下ろす。

「忘れ物をしたのはお前だ。何故私が付き添わなければいけない」

しっしっと追い払うように手を振られ、私は反射的に食い下がろうと口を開けた。
‥‥だけど途中で思い直して、ぐっと言葉を飲み込む。

(‥‥確かに、そうだよね。うっかりしてた自分が悪いんだし)
(それに‥‥)

開いたままの扉から見える教員室の中を、ちらりと覗いた。
北条先生の机の上には、作業途中らしい書類がいくつも載っている。

(こんな時間まで学園に残ってるんだもん。何か片付けなくちゃいけない仕事があって、忙しいんだろうな)

北条先生には、学園の講師として以外にも、もうひとつ別の顔がある。
国仕院学園の理事長――つまり、私のおじいちゃんに雇われている、執事としてのものだ。

いつもは講師の仕事が終われば、先生は理事長の元へ向かうはず。
それがこんな遅くまで学園にいるのだから、主人であるおじいちゃんの許可を得て、こっちで居残り作業をしていたんだろう。

忘れものに気付いて家から学園に戻り、夜の校舎を1人で歩く覚悟をしながら、鍵を借りるために教員室を訪ねて。
そこで偶然北条先生に会えたから、ほっとして思わず付き添いを頼んでしまったけれど‥‥思えば先生の都合を考えていない、とてもわがままなお願いだった気がする。

「‥‥無理を言ってしまって、すみませんでした。じゃあ、鍵だけお借りしますね」

先に受け取っていた鍵を掲げて頭を下げ、自分の教室の方へ歩き出す。

身勝手だったなとうつむきがちになって反省していたから、先生がしばらく私の背中を見つめていた事には、気付かなかった。




(うわあ〜‥‥)
教員室から離れて廊下を進みながら、私は青ざめていた。
毎日通っている見慣れた場所なのに、薄暗くて静まり返っているというだけで、異世界に入り込んだような錯覚を抱いてしまう。

(お昼は空調が効いてるから、校舎内では暑いとか寒いとか思わないけど‥‥今はむわっとむし暑いのもあるかも‥‥)

まとわりつくような夏の熱気が、必要以上に恐怖心をかき立てた。

(い、いやいや大丈夫大丈夫。お化けなんているわけが――)

ないよねと自分に言い聞かせようとした瞬間、背後から大きな手に肩を叩かれた。

「――っ!? ‥‥い、いぃいやあああっ!?!?」
「おい」
「出た! 出たー!!」
「‥‥何が出た、だ」
「何がって、そりゃ‥‥! ‥‥って、あれ?」
少しだけ我に返って振り向くと‥‥そこには、やかましいと無言で訴える、眉をしかめた北条先生の姿があった。

「ほ、北条先生‥‥?」
「ああ」
「‥‥‥‥」
「何故足元を確認する」
「いや‥‥幽霊やお化けが先生のふりをしている可能性もあるかなと思って‥‥」
「その注意深さを、課題を忘れて帰る前に発揮できれば良かったな、@苗字@」
「ううう」

心底哀れむような彼の口調に反論もできず、とりあえずうめいておく。

「というか足音がしなさすぎて、肩叩かれるまで全然先生に気付きませんでしたよ! 本当にびっくりしたんですから‥‥」
「そうか。それは計画通りだ」
「わざとですか!? どうしてそういう意地悪を――」

抗議の台詞が、浮かんできた疑問に潰されてしぼむ。
北条先生が歩き出していたのだ。私の教室がある方に向けて。

(あれ? 教員室に帰らないのかな?)
(‥‥というかそもそも、どうして北条先生が追いかけてきたんだろう)

「‥‥先生?」
「想定したよりも、お前の足取りがおぼつかないようだったからな」
「は、はい」
「放っておくと自分の影に驚いて転んだりと、どうしようもない理由で怪我をしそうだ」
(ありえません! と言い切れない自分が悲しい‥‥)
「学園の講師としても、理事長からお前の監督を任されている立場としても、そのような事態になっては困る。丁度、作業も一段落したところだった」
「‥‥‥‥」

瞬きをして、彼を見つめる。先生は特に表情を変えるでもなく、数歩先で私を待ってくれていた。

(‥‥それって‥‥)

「付き添って頂ける、って事ですか?」
「そうなるな」

決定事項を読み上げるような、淡々とした口調。
だけどそれを聞く私の顔は、どんどんと嬉しさに緩んでしまっていた。
過剰に甘やかしたりはしないけれど、必要だと思えば、ちゃんとそばにいてくれる。
そうだ。そういう人だった。

「‥‥すみません、ありがとうございます‥‥」
「別にどうという事はないが。手早く済ませろ」
「はい! 課題は机の中に入れっぱなしなので、すぐ見つかると思います」

並んで歩き出しながら、ふいにある事を思い付く。

「‥‥そうだ。先生、服の裾に掴まらせてもらってもいいですか?」
「理由次第で検討する」
「怖い時って、誰かに触ってると安心しません?」
「‥‥‥‥」
「‥‥やっぱり何でもないです」

道端の石ころを見るような眼差しに、私は潔く諦めた。
なるべく近くにいるだけで我慢しようと思い、先生との距離を詰めると、彼が肩をすくめる。

「全く、何をそんなに怯えているのか理解できんな。ただ薄暗いだけだろう」
「でもほら、定番じゃないですか。夏の怪談話とか、お化け屋敷とかで、夜の学校って‥‥」
「そういうものらしいな」
「‥‥‥‥」

(らしい、って‥‥)
(‥‥そういえば先生も、この学園の出身だったんだよね。という事は、先生も上流階級の人だって事だし、執事候補生だったって事だし‥‥)

「‥‥私、たまに友達と怖い話をしたりする事もあったんですけど‥‥先生って、そういうのをされた事あるんですか?」
「学生時代の夏季休暇に、狂乱の場があるオペラを見て、その感想を語り合った事ならあるな。『ルチア』や『サロメ』は血まみれにまでなる。あれもホラーと言えばホラーだ」
「そ、そこまでレベルの高いものじゃなく、トイレの花子さんがとか、口裂け女がとかをイメージしていたんですが‥‥」

首をひねって、質問を変えてみる。

「‥‥じゃあ、お化け屋敷とかはどうですか? わざわざ遊園地まで行かなくても、夏祭りに出てたりしますし」
「そういうものなら、一度見ておくのもいいかと思って、行った事はある」
「どうでした?」
「通りがかった時に外から見ただけだから、中がどうだったかはわからんな」
「そういうのは行った事ないって言うと思います‥‥。学生時代にお友達と行かれたりしなかったんですか」
「お前は斯波や鳥羽達が連れ立って、そういう場所で遊ぶ想像ができるか」
「‥‥無理ですね‥‥」
「だろう。私もあいつらと似たようなものだ。執事候補生だった頃は技術を磨くのに必死で、遊びどころではなかったし‥‥卒業して理事長に仕え始めてからは、言うまでもない」

一呼吸空けて、先生は軽く眼鏡の位置を直した。

「‥‥まあ、理事長もお優しい方だからな。避暑地に同行させるという名目で、実質の休暇を頂いたような事はある。イタリアに行った時は、私が興味を持っているとご存知だったらしく、夏の野外オペラに連れ出してくださったり‥‥」
「へえっ‥‥」
「‥‥無駄話は終わりだ。ほら、着いたぞ」

珍しく先生が自分の事を教えてくれていたから、ちっとも無駄だとは思わなかったけれど。
いつの間にか辿り着いていた教室の前で、私達は足を止めた。

鍵を開けて中に入り、近くにあるスイッチを押すと、短い明滅の後に教室が白々と照らしだされた。
私はさっと自分の机へ駆け寄って、課題のノートを捜す。
「あったか?」
「はい! すみませんでした、本当に‥‥。先生がついてきてくださって、すごく助かりました」
「そうか。なら、戻るぞ」
「はい‥‥」

(‥‥‥‥‥‥‥‥)

電気を消して廊下に出ると、何となく沈黙が続いた。
しばらく歩いた後、先生がため息をつく。

「‥‥仕方ない。掴まれ」
「え?」
「どうせまた怯えていたんだろう。お前が無口だと不気味でしょうがない」
「ち、違います! 怖くて黙ってたんじゃないんです」
「‥‥じゃあ、どうした」
「いえ‥‥。‥‥私っておじいちゃんと違って、先生に助けてもらってばかりだなって思ったんです。いつも感謝してるのに、何も恩返しとかできてないなって‥‥」
「‥‥‥‥」
「何か私にできるようなお礼はないかなーと考えてて‥‥」
「‥‥いや、別に――」
「例えば!」

ぱんと手を叩いて、彼を見上げる。

「今度は私が、お化け屋敷に付き添うっていうのはどうですか? な、何事も経験だと思いますし‥‥」

苦し紛れの提案に、先生は。
「‥‥機会があったらな」

断る、でもなく、どうして私がそんな場所に、でもなく、そう言ってくれた。
かすかに、だけど確かに――彼が微笑んでいるのを感じて、私も自然と唇を綻ばせる。

「もうひとついいですか?」
「何だ」
「‥‥やっぱり、服に掴まらせてもらってもいいですか」
「‥‥‥‥」

勝手にしろと呟く先生の袖口に、そっと指を触れさせながら‥‥。
すっかり安心しきった気持ちで、私は夜の学校を歩いていった。