(ふう‥‥。残りは執事養成科の教室かあ)

窓から入る夕日を頼りに、渡されたメモを確認する。
用があって教員室に顔を出した私は、偶然会った北条先生に、「暇そうだな」とプリント配布のお使いを頼まれてしまったのだ。

(先生も人使いが荒いんだから。‥‥まあ実際、用を済ませちゃえば暇だったんだけど)

外から聞こえる蝉の声を聞きながら、額に浮かんだ汗をハンカチで拭う。
普段は使わない廊下を選んで、私は“執事養成科”の校舎へと向かった。
プリントを配るのは2年生の教室だけでいいという事だったので、端のクラスからお邪魔していく。
だけど放課後になってからしばらく時間が経っていたせいか、どのクラスにも人はいなかった。がらんとした教室に挨拶をしながら入って、教卓にプリントを置いて退散する。

‥‥そんな繰り返しの作業に変化が起きたのは、プリントの束が随分軽くなった頃だった。



「失礼しま〜す‥‥」
「‥‥えっ? @名前@様‥‥?」

返事が戻ってくるとは思っていなかった私は、びっくりして目を上げる。
すると‥‥窓際の席に一人で座っている、オレンジ色の光に包まれた彼の姿が見えた。

上杉 優介(うえすぎ ゆうすけ)くん。 執事養成科の2年生で、私と同い年。ちょっと童顔で礼儀正しくて、頑張り屋さんの男の子だ。

「あ‥‥。そっか、ここ優介くんたちの教室だったね」
「ええ。届け物に来てくださったんですか? ありがとうございます」

優介くんは私が持っているプリントに気付くと、さっと近づいてきて、自分のクラスの分を受け取ってくれる。

「ありがとう。さっき先生に頼まれちゃって。優介くんはこんな時間まで教室に残って、一人で自習?」
「いえ、実は‥‥」

(‥‥?)

どこか曖昧な優介くんの態度を不思議に思っていると、彼は自分の席に戻り、机の上に並べてあったものを掲げてみせた。

「‥‥『今年の夏は是非オーストラリアへ!』‥‥?」

優介くんの手にある冊子の表紙には、そんな歌い文句と一緒に、綺麗な海の写真が広がっている。
というか冊子は一冊だけでなく、『ようこそシドニーへ!』『ケアンズでワニ肉グルメ!』などの文字が、そこかしこに溢れていた。

「へえ〜、オーストラリア旅行? 優介くん、ちょっと見てもいい?」
「あはは。大したものではないんですが‥‥どうぞ」

よく見れば冊子の近くには、手書きで綴られた行程表と電卓が置かれていた。
交通機関の時間の他に、行き先の候補地なども書き込まれているのが見える。

「わあ、すごいっ! これ、優介くんが考えたの?」
「はい。今度、父と母の休みが丁度重なるんです。だからオーストラリア旅行はどうかって僕から提案して‥‥」

ふと夕日が差し込む窓の方を見上げて、彼は気恥ずかしそうに頬をかいた。

「もう飛行機やホテルの手配は済んでいるんですが、日程をどうしようかと考えていたら‥‥つい、こんな時間になってしまいました」
「ふふ、そうだったんだ‥‥。でも、これだけ細かく書かれていたら安心だよ。観光候補地とその見所も書いてあるし、調べるの、大変だったんじゃない?」
「いえ、オーストラリアには行ったことがあるので、観光地のピックアップ自体は簡単でした。外国の文化を身をもって体験するのも、学園の授業の一環なんです」
「そんな授業があるんだ。すごいなあ‥‥。たとえば、どんなところを見て回ったの?」
「そうですね‥‥。僕達が行ったのはシドニーだったんですが、まず町並みだけでもとても綺麗でしたよ」

優介くんは近くにあったファイルから、その時に撮ったものなのか、数枚の写真を見せてくれた。

「ここが、ロックス。これはカレッジストリートで‥‥こっちはクイーン・ヴィクトリア・ビルディングですね」
「わあ‥‥。何だか歩いてるだけで、外国映画に出てる気分になりそうだね」
「雰囲気がありますよね。でも、郊外のビーチや自然ももちろん素晴らしかったです」
「ビーチ! ‥‥は、授業の一部だから、泳いだりはしなかったのかな?」
「ええ。ですが少しだけ、休憩時間にグラスボートに乗ったりはできたんです。底がガラスになっていて、サンゴ礁や色とりどりの魚が見えて涼しげで‥‥」

優介くんは写真やパンフレットをなぞりながら、大きな瞳をそっと、柔らかく伏せがちにする。

「それに、休憩時間に寄った喫茶店も良かったな‥‥。オーストラリアはコーヒーが美味しいんですよ。あの時のラテアート、@名前@様にも見せてあげたかったな」

懐かしそうな優介くんの口調からは、とても旅行を楽しみにしている事が伝わってきた。

(きっと授業で行った時は、息つく暇もほとんどなかったんだろうな。だから今度こそ色んなところを見て回ろうって、計画を立てて‥‥)

「‥‥すごく素敵な場所なんだね。楽しんできてね、優介くん!」
「え……?」

思わず頬を緩めた私の台詞を聞いて、優介くんがきょとんとした顔をする。

(あ、あれ? 私、変なこと言ったかな)

戸惑っていると、優介くんはすぐ「ああ」と呟き、首を振った。

「すみません、紛らわしくて。今度の旅行、僕は行かないんです」
「えっ? でも、さっきお母さんとお父さんに見せたいんだって‥‥」
「はい。ですのでこれは、父と母の2人きりの旅行プランなんです。今回は2人に、心から楽しんで欲しくて‥‥」

曇りのない、とても嬉しそうな表情を向けられて‥‥。

私は驚きながらも、どこかで優介くんらしいなと納得していた。

実は優介くんは施設の育ちで、血の繋がったお父さんとお母さんとは別に、育てのお父さんとお母さんがいる。
産みの親に会ってみたいと言っていた優介くんは、色々あって何とかその2人を見つける事ができたし‥‥お互いに再会を喜び合っていた。
だけど彼は今も、“本当の両親”は自分を引き取ってずっと一緒にいてくれた2人だからと、育ててくれたご両親のそばにいるのだ。

「‥‥優介くんも一緒に行かないの? 優介くんのお父さんたちに会った事のない私が言うのも何だし、優介くんもわかってると思うけど‥‥2人とも、喜んでくれると思うよ」
「ええ‥‥。両親にもそう誘われました。ですが、執事養成科の休暇はとても短いので。中途半端についていったら気を遣わせてしまいますし‥‥」
「忙しい人たちなので、今回はゆっくりと楽しんで欲しいんです。2人が喜んでくれれば、僕はそれが一番嬉しいから」

照れたように頬を染めて、優介くんが微笑む。
その仕草が可愛らしくて、自然と唇が綻んでしまった。

(やっぱり、優介くんって優しいな‥‥)

この学園に転入したばかりの私が、『執事選抜』の“お嬢様”役になった時も。
不安でどうしようもなかった私に、優介くんはとてもよくしてくれていた。

(あの頃は、他のみんなより出来てないんじゃないかってコンプレックスがあったみたいだけど)
(それでも、いつだって全力で私を守ってくれたんだよね‥‥)

思い出すだけでじわりと胸が温かくなったのを感じながら、私はふいに気になったことを尋ねてみる。

「それじゃあ、優介くんは夏休みの間、どうするの?」
「僕は、寮で勉強をしたりして、いつも通り過ごすつもりです」
「‥‥いつも通りに‥‥」
「はい。いつも通りに」
「‥‥‥‥」
「‥‥? @名前@様?」
「‥‥あのね、優介くん。ちょっとだけ提案があるんだけど‥‥」
「はい、何でしょうか」

意を決して、私は思いついた事を彼に投げかけてみた。

「‥‥優介くんのお休みのうち、一日だけ、私が貰っても良いかな。それで‥‥今度、二人でどこか一緒に遊びに行かない?」
「え‥‥っ? @名前@様と、あ、遊びに‥‥?」
「うん。‥‥でね、その時は、私がプランを立てたいんだ」

緊張しながら、先を続ける。

「ええっと‥‥ほら、優介くんって、いつもみんなのために頑張ってるし。私もたくさん、助けてもらったし。だから、たまのお休みくらいは、誰かが優介くんのために何かしてあげたらいいのになって。‥‥それで、じゃあ私がその誰かになればいいじゃ〜ん、とか‥‥」

「‥‥‥‥」
夕日のせいだけじゃなく、彼の目元が色付いていく。
それに気付いて、私もかあっと体温を上げてしまった。

「さ、さすがにあれだけどね! 優介くんみたいに海外旅行とかは無理だから‥‥! 映画館とか、ショッピングとか、遊園地とか、そういう普通の遊びになっちゃうと思うけど‥‥っ」

視線を宙にさ迷わせて、思いついた行き先を口にしていく。
そんな、照れくささで言い訳じみた私の言葉は――ぎゅっと手を包まれる感触で、途切れてしまった。
視線を向けると、満面の笑みの優介くんと目が合う。
きらきら輝く太陽みたいな笑顔に、どきりと鼓動が跳ねた。

「すごく嬉しいです‥‥! @名前@様と出かける日を、楽しみにしていますね!」

そんな元気な声が、赤くなった私の耳に届く。

(‥‥これは、私も優介くんみたいに、入念な下調べが必要かも‥‥)

夕暮れ時の教室に、優介くんと二人きり。
私はそのあと、優介くんの作業が終わるまで、彼との休日の計画を考えることになるのだった。