(えーっと‥‥この辺りにある本だと思ったんだけどなぁ)

自分よりもずっと背の高い本棚を見上げ、整然と並んだ背表紙を私は目で追っていた。

星が丘学院は、どこを見ても豪華絢爛という言葉が似合う。
それはこの図書館も例外じゃなくて、まるでお城のような内装を初めて見た時は、思わず口をぽかんと開けてしまった。

(でも‥‥色んな種類の本が揃っているのは嬉しいけど、探す時はちょっと大変かも‥‥‥‥あ、あの本かな?)

ようやく目的の本を見つけ、嬉々として手を伸ばす。
ところがその時、ほぼ同じタイミングで別方向から大きな手が伸びてきた。

「きゃっ‥‥!」
「‥‥! すまない!」

私の小さな悲鳴に驚いたのか、一瞬触れ合った手は、目にも止まらぬ速さで私の手の上から去っていく。

(あれ‥‥? でも今の声って‥‥)
「あ‥‥」
「やっぱり、藍河くん」

そこにいたのは、同じ映画部メンバーの藍河結人(あいかわ ゆいと)くんだった。
私と同学年で、眼鏡の似合う、知的で礼儀正しい男の子。

‥‥だけど、実は彼はこの星が丘学院の生徒ではない。
月ヶ瀬学園という、星が丘と並んでセレブ校として有名な学校に、普段彼は通っていた。
でも、様々な事情や特例によって、今は他校生ながらも映画部の活動に参加してくれている。
私服を着ているところを見ると、学校が早く終わって、一度家に帰ってから星が丘まで来てくれたのかもしれない。

「@苗字@さんだったんだな。驚かせてしまって本当にすまなかった」
「ううん、こっちこそごめんね? 藍河くんがいるのに全然気付いてなかったから、ついびっくりして声が出ちゃって‥‥」
「‥‥全然‥‥」
(あっ‥‥)
「前々からうっすらそんな気はしていたが、やはり私は気配というか、存在感が薄いようだな」
「そ、そんな事は‥‥!」
「まぁ影が薄いのはいいとして、周囲を驚かすのは本意ではない。そこはなんとか改善していきたいところだが‥‥」

藍河くんは根がとても真面目だ。
たぶん、映画部の男性陣の中で一番の常識人というか、良心的な存在だと私は思う。

「あ、それなら逆に気配を消すのを極めれば、誰かを驚かす事もないかも‥‥」
「‥‥@苗字@さん、それはあまりフォローになっていないような‥‥」
「‥‥! ご、ごめん!」
「はは‥‥いや、謝る事はないよ。その意見も参考にさせてもらう。ありがとう、@苗字@さん」

律儀にお礼を言いながら、目元を緩めてくれる。
クールな顔立ちの藍河くんだけど、笑顔は優しげで、とっても素敵だ。
最初に会った時は、ある理由から、なかなか彼の心からの笑顔を見る事ができなかったけれど‥‥。

(今はこんなふうに打ち解けられて嬉しいな‥‥)
「そういえば、@苗字@さんも、その本を探していたんだな」
「うん、今度の映画作りの参考にならないかなって思って」

改めてさっき見つけた本を手に取って、私はパラパラとページをめくった。

「クラスメイトから薦められてこの本を探してたんだけど‥‥次の映画は推理ものとかでも面白そうだよね」
「ああ、そうだな。私も推理ものは嫌いじゃない」

文章に目を落としているとサイドの髪が視界に入り込んできたので、片手でそれを耳にかける。

「‥‥‥‥」
「あ、これ、登場人物もすごく個性的で面白いかも。これを元にした脚本とかってないかな?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
「ね、藍河くんはどう思‥‥‥‥‥‥藍河くん?」
「‥‥っ!!」
いつの間にかぼんやりしていた藍河くんが、弾かれたようにびくっと肩を跳ねさせる。

「ど、どうかした?」
「あ‥‥いや‥‥、その‥‥‥‥」
「‥‥藍河くん?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」

気まずそうに視線を逸らす藍河くん。
しばらくして、根が正直者の彼は小さな声で教えてくれた。

「本を読む@苗字@さんの姿が‥‥絵のようにとても綺麗だったので、つい見とれてしまっていた」
(‥‥!?)
「不躾にすまない。気分を悪くしただろうか?」
「あっ‥‥えっ‥‥い、いや! 大丈夫! 大丈夫だから!」

力説した直後、私の口は藍河くんの人差し指と中指に塞がれた。
突然の行動に、一瞬頭の中が真っ白になる。
遅れて、そういえばここは図書館だった事を思い出した。
これ以上大声を出さないよう、藍河くんが慌てて私を止めてくれたんだ。
だけど私は、しまったと思うよりも、唇に触れている藍河くんの指の感触に緊張してしまう。

藍河くんは周りを見回して、誰もこちらを気にしていない事を確認すると、ホッと息をついた。
指がそっと離れていったので、私はさっきよりかなり小さな声で「ごめんね」と謝る。

「いや、平気だ‥‥でも図書館は移動した方がいいかもしれないな」
「そうだね‥‥他の人の迷惑になるかもだし‥‥」

私は急いで持っていた本を借りる手続きを済ませると、藍河くんと一緒に図書室を後にした。
人通りのない廊下を歩きながら、改めて藍河くんに謝り、気を取り直して映画部の部室を目指す。

‥‥ぽつぽつと世間話をしているうちに、ぎこちない空気は少しずつ薄れていった。

放課後の廊下には、まぶしいくらいの西日が差し込んでいる。
夏特有の熱っぽい風がどこからか吹いてきて、私達の頬を軽く撫でていった。
「‥‥時々、思うんだ」

その時、隣を歩いていた藍河くんが、ふいにぽつりと呟く。

「きっとこの先の人生でも、夏が来る度にこうして映画部のみんなと過ごした事を思い出すんだろうなと」
(藍河くん‥‥)
「うん‥‥そうだね。私もきっと同じだと思う。合宿所で体力作りにヘトヘトになった事とか、たぶん絶対忘れないよ」
「はは‥‥まずそれがくるんだな」
「藍河くんは、実は結構体力があるよね。合宿所周りを走った時も、全然息が上がってなかったし」
「個人的に映画の撮影をしていた事もあるし、基礎体力作りは以前から行っていたんだ。それに、見た目の印象と違うと良く言われるが、実は体を動かすのは結構好きだし」
「へええ、そうだったんだ!」
「私としては、@苗字@さんがおにぎりを作ってくれた事が思い出深いな」
「あはは‥‥あの時はみんなの口に合うか心配だったけどね」

私達が思い出すのは、とある映画を撮っていた時の毎日だった。

「‥‥‥‥‥‥『ミルキーウェイにお願い』」

呟く藍河くんの声には、どこか感慨深そうな響きが混じっている。

「何年も経ってないのに、あの映画の事がもう懐かしく感じるのはどうしてだろうな」

眼鏡の向こうで、藍河くんがまぶしそうに目を細めた。
‥‥きっと私も、同じような表情をしていると思う。

『ミルキーウェイにお願い』は、私が映画部に入ってすぐに制作に着手した作品だ。
合宿所のある学院所有の離島で偶然脚本を発見し、手直しをして、撮影に望んだ。
私達だけじゃ手が足りなくて、藍河くんは最初、助っ人として映画部にやって来た。
だけど、『ミルキーウェイにお願い』は“いわくつきのシナリオ”と呼ばれる、特別な脚本だった事がわかって‥‥。

「‥‥あの時は、本当に色んな事があったね」
「ああ‥‥‥‥今でも時々、あの時の事を反省する時がある」

少し低めの藍河くんの声に、私は微笑みだけを返した。

「さ、もうすぐ部室だな。今日も部活、頑張ろう、@苗字@さん」
「うん、そうだね!」
「少し遅くなってしまったし、宮瀬部長も宙くんも、もうみんな待っているかも‥‥」
「‥‥ところで、最後に1つだけいい? 藍河くん」
「ん? なんだ?」
「あの時は色々事情があったけど‥‥‥‥藍河くんに押し倒された事も、きっと夏が来る度に思い出すと思う。私」
「‥‥‥‥!」

藍河くんの頬が予想よりもずっと真っ赤になったから、私は思わず声を上げて笑ってしまったのだった。