(ちょっと遅くなっちゃった! 急いで部活に行かないと‥‥)

担任の先生に頼まれた雑用をこなしていたら、もうすぐ部活の始まる時間になっていた。
すっかり誰もいない放課後の教室で、一人焦りながら教科書をまとめたりと部活に行く支度を急ぐ。
(早くしなきゃ。きっともうみんな集まってる)

‥‥そのときだった。

――かつん。

真後ろの、すごく近くで唐突に乾いた革靴の音がして、私ははっとした。

(え、誰かいるの?)

しかし振り返ろうとした瞬間、いきなり後ろから両肩を掴まれて動けなくなってしまう。

「きゃっ!」

(やだ、誰!? 教室には私一人だけだったし、誰かいる気配だって感じなかった‥‥!)

そう思ったとき、私はこの学院に伝わる『七不思議の噂』を思い出してぞっとした。

(まさか‥‥“ファントム”!!)

派手な見た目で、学院内を彷徨うといわれている亡霊。
よくある怪談話の類だと思っていたのに。

(に、逃げなきゃ!!)

私は恐怖で振り返れないまま、それでも何とか肩を掴む手を払いのけようと体に力を入れる。

「‥‥くくくっ」

すると、背後で押し殺したような笑い声が聞こえたかと思うと‥‥、

「わーっはっは! 驚いたか、@名前@!!」

あっけらかんとした声が響き、振り返った私の目の前には思いもよらない人が立っていた。
「な、夏目先生!!」
「いやー、さすが我が映画部の唯一の女優だな! いい感じに怖がった感じが出てたぞ!」
「演技なんかじゃありません!」

嬉しそうに笑っているのは、間違いなく夏目航太郎(なつめ こうたろう)先生だった。
この学院にはあまりいないタイプの、豪快で親しみやすくて、いい意味で不良教師と言われている憎めない先生だ。
ちゃんと化学教師で映画部の顧問もこなしているし、何よりも女子生徒にもすごく人気が高い。

(確かにこうやって気さくな先生はこの学院は少ないから、すごく新鮮で憧れる気持ちもわかるけど)

「もう、イタズラやめてください。本当に怖かったんですから。もし、ファントムだったらって‥‥」
「へぇ、ファントムね。それなら成功だな。何しろお前を驚かそうと思ってやったんだから」
「えっ」
「参ったか俺の演技力。忘れちゃ困るぞ、俺は映画部の顧問兼、看板役者だ! 背中越しだったけど、なかなか気迫を感じただろ?」

看板役者かどうかは置いておいて、確かに夏目先生は部員も兼ねているし、その実力は若い頃から有名みたいで、迫真の演技をファントムだと思わされてしまったのも無理ないのかもしれない。
でも私はそれよりも別のことがひっかかって、ご満悦の先生に少し口を尖らしてしまう。

「先生の演技力はわかりましたけど、何でいきなり驚かしたりするんですか」
「そんなの決まってるだろ! 罰だ!!」
「ええっ!?」

身に覚えのない言葉に戸惑ってしまう。

「詳しく言うと、俺様の部活に遅れた罰だぞ!」
「ぶ‥‥っ、部活に!?」
「そうだ。遅刻なんていい度胸じゃねーか」
「す、すみません! でもそれは担任の先生に‥‥」

私は急に雑用を頼まれてしまったことや、それでも急いで部活に行く支度をしていたことを必死に説明する。
すると神妙な顔で聞いていた先生が、またも押さえきれないというように笑い出した。
「まあ、最初からそんなことは知ってたぞ!」
「し、知ってたんですか」
「ああ。正直言うと俺も部活に遅刻しそうだったんだがな。ちょうど慌てるお前の姿が見えたから、からかってやろうと思ってさ。どうだ、楽しかっただろ」

まさかそんな子どものような動機で色んな感情を揺さぶられていたか思うと、がっくりと脱力してしまう。

(しかも先生のせいで、さらに遅刻してるし‥‥)

それでも嬉しそうに笑う先生は、何だかイタズラが成功した子どもみたいに嬉しそうで少し可愛い。

そんなことを思いながら、私は教科書を鞄につめる作業を再開する。

(とりあえず部室でみんな待ってるだろうから、一刻も早く部室へ行かなきゃ)

夕暮れ近い教室は綺麗なオレンジ色で染まっている。
遠くの運動部の掛け声とセミの鳴き声が、夏の夕暮れらしさを演出していた。

「二人っきりなんだな」
「‥‥え?」

唐突にそう言う先生の声色は、とても穏やかで。

「ホラ、みんな帰っちまって廊下もすげー静かだし。だんだん陽も傾いてきて残ってる奴も減ってきたみたいだし」
「あ、確かに‥‥そうですね‥‥‥」

放課後に誰にも知られずに先生と二人だけでここにいるんだ‥‥という実感を強く感じてしまう。

(どうしよう、そんなこと言うから急に意識しちゃって顔が赤くなってるかも。気付かれませんように‥‥)

「あれ? 何か顔赤い? まさかお前、俺と二人っきりだからって変なこと妄想してるんじゃねーだろうな?」

いきなり図星を突かれて心臓が一気に跳ね上がったような気がした。

「いやいや妄想なんて‥‥あっ! そうだ、先生は毎年夏はどんなふうに過ごすんですか!!」
「ん? そうだな、俺の夏は映画部の夏といっても過言ではないからな!」

若干強引な話題転換だったけれど、先生はあっさり乗ってきてくれた。

(よ、よかった‥‥)

とん、と軽快な音を立てて先生が机から降りる。

「学生の頃から星が丘の映画部に所属してただろ。だから夏休みなんかロケハンや撮影で真っ黒になってたぞ。教師になっても映画部の顧問だし、やっぱり映画漬けで意外と忙しいんだ」
「そう聞くと、すごく大変そうですね」

(確かに映画部のことには必ず全面的に協力してくれるし、先生は映画部のことを本当に考えてくれてるんだな‥‥)

「‥‥でもまぁ、今年の夏は少しくらい個人的に楽しんでもいいかもな?」
ふいに先生は私との距離を詰めると、顔を覗き込みながら小声でそう言ってくる。
間近で先生の前髪が揺れるのが見えて、その距離の近さにドキっとした。

「夏が満喫できる場所ならどこだっていいが、日陰でのんびりして癒されたり、浴衣を着て夕涼みを楽しむのもいいな」
「ゆ、夕涼みですか。いいですね」
「‥‥そういえば、@名前@はなかなか浴衣が似合うんじゃねーか?」

先生は相変わらず私を覗き込みながら、艶っぽい声色で言葉を続ける。

「あ、あの‥‥夏目、先生‥‥‥」

ドキドキして恥ずかしいのに、覗き込まれるままに目が逸らせない。

(どうしよう、先生の雰囲気が何か違うような気が‥‥)

「‥‥@名前@が意外と可愛いから、ついじっと見ちまうな」
「え‥‥」
「‥‥@名前@」

そっと優しい低音で、名前を呼ばれた時だった。

「こらーーー!!! 不良教師!!!!」
ガラッと教室の戸が開かれる音がして、ドタドタと宙くんと梓くんが入り込んでくる。
「宙くん、梓くん!」
「二人がまだ来ないから後輩くんと気になって捜しに来てみれば、全く‥‥先生のくせに油断もスキもないんだな」
「@名前@センパイ、大丈夫だった!? 変なこととかされてない?」
「お前ら! 教師に向かって失礼すぎるだろ!」
「ごめんな@名前@。いやーな思いさせただろ? 早く忘れて部活に行こうぜ」
「おい、梓‥‥」
「梓くん。そんな、嫌なことなんて何にも‥‥」
「センパイは優しすぎなんですよ。ったく放課後の教室で二人っきりとか、マジで悪質なんですけど」
「待てって、だから俺は何もしてないっつーの!!」
「あー! もう耳元で大声出さないでくださいよ!!」
「お前が悪質とか言うからだろーが!」
「ちょ、ちょっと。みんな、落ち着いて‥‥!」

一気に騒がしくなった教室に思わず苦笑いしてしまう。
夏目先生もすっかりいつも通りに戻ってしまい、それはそれで残念な気がしないでもなかった。

でも、あの甘くて優しい声や熱っぽい視線を思い返すと頬が熱くなってしまい、私は慌てて気持ちを切り替えたのだった。