名家のご子息ご令嬢が多く通う、ちまたでも有名な超セレブ校、星が丘学院高等学校。
その学院に、あるきっかけから一般庶民の私が通い始めるようになって、もうどれくらい経っただろうか。
相変わらずセレブのみんなとの常識の違いに驚かされる毎日だけど、それも含めて、私は楽しい学院生活を送っていた。

‥‥‥‥が、今日ばかりは学院に向かう足が重い。

(うう‥‥体がだるい。睡眠不足って本当に健康の敵なんだな‥‥)
(というか、どうしてこの時期に、部屋のエアコンが壊れちゃったんだろう)

そう。実は昨晩、湿気大国日本の夏との、エアコンなしの戦いに私は突如放り込まれてしまったのだ。
結果はまぁ惨敗で、昨日の夜は寝苦しさに何度も目が覚めてしまった。

「あれ‥‥@名前@ちゃん? なんだか元気がないね?」
「‥‥!」

その時、優しい声に名前を呼ばれて、私ははっとして背筋を伸ばす。
振り返った先にいたのは、予想通りの人物だった。
私が所属している映画部の部長を務める、3年生の宮瀬渉(みやせ わたる)先輩。
この暑さの中でも少しもだらけた様子がなく、しゃんと背筋が伸びているところに、彼の育ちのよさや、爽やかな人柄を感じる。

「宮瀬先輩、おはようございます」
「うん、おはよう、@名前@ちゃん。‥‥少し顔色も悪いみたいだけど、何かあった?」
(うっ‥‥顔色悪いんだ、私‥‥なんだか恥ずかしいなぁ)
「何かってほどではないんですけど‥‥実は少しだけ寝不足なんです。昨日の夜、部屋のエアコンが突然壊れてしまって、暑さでなかなか眠れなくて‥‥」
「エアコンが‥‥それは大変だったね」
「しかも修理の人が来てくれるのが明日なので、今夜もまたあの熱帯夜を味わう予定なんです‥‥」
「今日も寝る時に辛い思いを‥‥? うーん、それは良くないね。もし良かったら、僕の家の客間に泊りに来るかい、@名前@ちゃん? 1日くらいなら、父と母も快く許してくれると思うし」
「えっ!? 先輩のお家に……!?」

予想外の言葉に、どきりと胸が跳ねる。
確かに先輩の家には客間も山のようにあるだろうし、親切心で言ってくれたとはわかっているけれど‥‥。

(その親切心が分け隔てなさすぎるというか‥‥相変わらずちょっと天然というか‥‥先輩にそんなふうに言われたら、女の子がどれほどどきどきするのか、わかってないんだろうなぁ)
「ありがとうございます、先輩。でもあと一晩だけですし、今回はなんとか頑張ってみます」
「そうかい‥‥? でも、もし睡眠不足で本当に体調を崩したら大変だし‥‥。よければ、僕の知り合いに頼んで、@名前@ちゃんの部屋のエアコンを今日中に直してもらうようにしようか?」
(‥‥! 宮瀬先輩の“知り合い”って、先輩の電話1つでどこからともなく現われる、あの謎のお知り合い‥‥!?)
「だ、大丈夫ですよ! エアコンがなくても、何か一工夫すれば暑さを気にせず過ごせるんじゃないかなーと思うので‥‥」
「一工夫‥‥‥‥ああ、だったら部屋に氷像を置くっていうのはどうかな? 見た目も綺麗だし、部屋も涼しくなるし、一石二鳥だと思うけど‥‥」
(氷像!?)

先輩の親切が、段々おかしな方向に向かい始めた。

「それも大丈夫です‥‥! えっと、もしかしたら私、眠っている時に手足をぶつけちゃうかもしれないですし」
(そもそも、氷像なんて一般人の部屋には入らないと思うけれど‥‥!)
「うーん‥‥そっか‥‥それは確かに危ないね」
「‥‥あ! そうだ! それならラベンダーを使うっていうのはどうかな、@名前@ちゃん」

思案顔からぱっと明るい笑顔になって、宮瀬先輩は嬉しそうに私に教えてくれた。

「えっ‥‥ラベンダー、ですか?」
「確かラベンダーの香りには安眠効果があると聞いた事があるんだ。だからポプリを枕元に置いたり、アロマオイルを使ったりすれば、少しでも眠りやすくなるんじゃないかな?」
「わあ‥‥確かにそれは良さそうですね!」

寝苦しさを香りで緩和するって発想はなかったし、それなら私にも実践できそうだ。
先輩の素敵なアイデアに、思わず私も笑顔になる。

「ありがとうございます、先輩。今夜はうまく眠れそうな気がしてきました」
「ふふ‥‥実は人から聞いた受け売りだったんだけど、@名前@ちゃんに喜んでもらえて良かったよ」
「受け売り‥‥?」
「うん。以前父と一緒に出かけた時に、たまたま機会があって一面のラベンダー畑を見てね。その畑の持ち主の方から教えてもらったんだ」
「へえ、ラベンダー畑ですか‥‥! ラベンダー畑というと、もしかして、ふらの‥‥」
「そうそう、フランスのプロヴァンス地方のラベンダー畑だよ。今思い出しても、とても見事な風景だったな。見渡す限り綺麗な紫色が広がっていて、いい香りに溢れていて‥‥」
「‥‥フ、フランス‥‥」

私が思い浮かべたのは、風光明媚で、絵画のようなフランスの風景‥‥
ではなく、日本は北海道の富良野だったけど、たぶん普通の女子高生はそっちを先に思い出すんじゃないかと思う。

(でも‥‥先輩の表情を見ていると、本当に素敵な所だったっていうのが伝わってくるなぁ)
「行った事はないですけれど、なんだか想像しただけで楽しくなってきました‥‥! そういう場所だったら、冷房機器がなくてもぐっすり眠れそうですね。そのまま朝の散歩に出かけても、気持ち良さそうですし」
「朝のラベンダー畑の散歩‥‥うん! 確かにとっても素敵だね! それに、@名前@ちゃんがそうしてラベンダー畑を散歩しているのは、すごく絵になると思うよ」
(えっ‥‥!?)
「あの場所に、いつか@名前@ちゃんと一緒に行けたらいいんだけど‥‥」
「‥‥‥‥」

楽しそうに話す先輩を見つめながら、私は密かに緊張して心音を速めていた。

(私と一緒にって‥‥)

言葉の意味を深く考えようとすると、段々顔が赤くなってきてしまう。
しかも先輩が、優しくて穏やかな表情をしているから余計に。

(あっ、いつまでも黙ってたら変に思われるよね‥‥! な、何か会話を続けないと‥‥)

「えっと‥‥映画部のみんなも、この話を聞いたらそのラベンダー畑を見たがるかもしれないですね!」
「ふふっ、そうだね。宙くんなんか、特にはしゃぐかもしれない」
「ですよね‥‥!」
「‥‥‥‥だけど‥‥」
それまでの端整な笑みが、ふいにまっすぐな眼差しになって、私を見つめてくる。

「僕としては、@名前@ちゃんと二人きりだったら、もっと嬉しいかも‥‥って思っていたんだけどな」

(‥‥‥‥‥‥‥‥!)

瞬間、心臓がどきりと大きく跳ね上がった。

(二人きりって‥‥‥‥ええっ!? 先輩、それってどういう‥‥)

落ち着きをなくした私は、ただ先輩を見上げる事しかできなくなってしまう。
その先にある大きな瞳は、決して嘘をついているようには見えなくて‥‥私はますます言葉に困る。


「‥‥‥‥っと、いけない。あんまりこうしてのんびり話していたら、遅刻しちゃうかもしれないね」
「え‥‥?」
「@名前@ちゃんと話しているのは楽しいから、つい長話になっちゃった。校舎まで、少し急ごうか?」
「あ‥‥は、はい‥‥」

突然そう促されて、私は慌てて急ぎ足になりながら、先輩と一緒に目の前の立派な校舎を目指した。

(‥‥うーん? 私と違って、先輩は普段通りって感じかも? さっきの先輩の言葉に、そこまで深い意味はなかったのかな?)

(それとも‥‥私が答えに困っていたから、わざと‥‥?)

そっと隣を歩く先輩を見上げてみる。
すると先輩はすぐに私の視線に気付いて、くすっと微笑んでみせてくれた。
それがまた、意味深なようにも、違うようにも見えて‥‥。
予鈴が鳴り響く中、私は寝不足のせいだけじゃなく、歩調を乱してしまっていた。